「制作ノ-ト」カテゴリーアーカイブ

研修

美術工芸科研修に参加、今年は長野の装飾学校へ。ステンドグラス、木工,金属の中から選べたので、鍛金をやってみた。鍛金といえば、銀の延べ棒からスプ-ンを作ったことがあったけれど、今回は鉄。銀の場合は高温にしてすぐ鈍して叩くが、鉄は熱いうちに打つ。コ-クスで高温になった炉に鉄を入ながらの作業は汗みどろ、使い慣れない筋肉を使うのでへたばったが、徐々にカタチになってくると楽しくて没頭してしまう。

夕飯はバ-ベキュ-で、目の前に沢山お酒を並べられては自制はきかない。明日もありますよって忠告されたけど、飲んでしまった。そして、勝手に持参した寝袋で寝たせいか安眠できず(酔っ払って寝袋で寝ると閉所恐怖症か?ってくらい苦しかった)、翌日は案の定二日酔いで、朝食もとれないまま工房へ。出てくる汗は冷や汗だったけれど、火の前に立って金91.jpg槌を振り下ろしていると、酔いも覚めてくる。なんだか不思議。二日酔いになりながら初めての鉄で作ったのは恥ずかしながらこんなもの。時間が余ったのでお皿に足をつけたら鼎のようなものになったけれど、満足、満足。蜜蝋を塗って仕上げ。錆止めには絹を使うという伝統的な方法もあるらしい。あたためた鉄にシルクの布を使って拭くと、繊維が燃えて蛋白質が作用し黒く色がつく。昔の人はよく考えたものだな。そうだ、塗るといえば漆塗りをしたとき。「乾かす」といえば湿気を与えないことをイメ-ジするけれど、漆はじゅうぶんに湿気を与えないと乾かない。風土と密着しているんだなあ。

筋肉痛も漆かぶれも、何日か経ってあとででるけど、工芸って面白い。

2006/8/12

 

生きる根っこ

どうしたら作品のカタさを取り払えるか、どうしたらもっと豊かな空間にできるだろう。当然これは自分自身と直結している問題でもある。そう、 作品が先にあるのではない。「どう描くか」より「どう生きるか」がまず先にあるのだと思う。根っこがしっかりしていないとふわふわ上っ面なものとなってしまう。根っこ。植物にはみんなしっかり根っこがある。数年前のことだが、94歳を過ぎた祖母が思うように動けなくなって、亡くなるちょっと前、歳をとって生きるその心境はどんなものかを訊いたことがあった。

1、萎れた花   2、虚ろになった木   3、枯れた草

祖母の答えは2番目だった。答えを聞いて改めて、その一生の篤さを感じた。

私のこの4,5年は、不安定に身を置き、宙吊りの感情で増幅する心の動揺をもってすれば自ら豊になり、いい作品が創り出せるんだと合点していた。確かに、どんなものでもエネルギ-がなければ創りだすことは出来ないけれど、生きることの根っこってなんだろう。揺れながらでも、しっかりした根っこをもった生き方。私はちゃんと地に足をつけて生きているんだろうか?疑問だな。そろそろ40歳を前にひとりごと。    

2006/7/13

 

無器用

表現することに私はなんて無器用なんだろうと、つくづく思う。そのときしなければならないこと、そこで筆を持つ手を止めなければいけないとき、いつも躊躇してしまったり、余計なことをしてしまう。肝心なところに行き着かない。何故か出来ずにぶち壊してしまう。制作に限ったことでなく、全てにおいて。…ああ、自己嫌悪。その一瞬を潔くあらわせるようになりたい。すっとして濁りの無い、ポキッと折れないしなやかさをもった1本の線になりたいなあ。

2006/5/13

音楽

4歳の頃、母に「ピアノとバイオリンのどっちがいい?」と問われ、大きな楽器のほうが好いと思いピアノと答えたのを記憶している。以来,大学に入るまで続け、それなりに身をいれてやっていた。小さい頃は、思うように指が動かないと自分の手に噛み付いて、毎日の練習が終わると手の甲に歯形がいっぱいついていた。
音楽は時間芸術。 私が音楽では苦しいなと思ったのは、時間の流れについていけなかったから。練習ならうまくいくまで繰り返しできるが演奏となるとそうはいかない。音楽の情景をイメ-ジして体で覚える訳だけど、時々、時間の流れからはみ出してしまって追いつかないという感覚、音楽にのせられない、という自分の限界を感じた。とりあえす、絵画にはそれがない。自分のペ-スで時をじっくり積み重ねていける。
今回ホ-ムペ-ジに、ドロ-イングなども載せてみた。昔の題材は殆ど音楽から。子供の頃から聴いていた音楽は専らクラシックだったが、その中でも一番シュ-マンの曲はイメ-ジが浮かんだ(一番ぼろぼろになっている楽譜もシュ-マン)。いまだに「音」は大切な要素の1つで、今はジャンルを問わず(ただし演歌以外)たくさんの好きな音楽に囲まれている。

2006/3/9

素材

異国の地を見て歩き、そこの空気に触れたとき、たくさんの情報によって既に知ったつもりになっていたものは実は仮想のものに過ぎなかったと思い知らされるものだ。その場所と対峙していると、その土地のにおい、肌に感じる光の強さ、時代を超えて脈々と流れてきた未知の空間を感じとることが出来る。
視覚的に受けたものだけが優先されることなく、触覚的なものや、におい、そして、聞こえてくるもの、実際に肌で感じとったものを総じて色と形で組み立てられないだろうか、・・・そしてそこには当然、どんな素材を使うかということがモンダイになってくる。粒子と粒子と繊維と繊維、その微妙な絡み合い、混ざり合いが蓄積されて形を成していく。かさかさ、つるつる、ざらざら、ふわふわ、手で触らなくても、目で触っている。この感覚が私にとってはとても重要。素材が大切!

2006/2/5

紙漉き

昨日まで3日間紙漉き。冬場は水が冷たいのでいい紙が漉ける。その代わり手は真赤にふくれてしまう。冷たい水。本当は水道水じゃない方がいいらしい。私が紙を自分で漉いて作品を作ってみたいと思ったのは15年前くらい。紙がパシッと四角なのに違和感を感じて、紙を焼いたりして自然に出来上がったカタチを作品にしてみたくなったのが始まり。紙の耳はボソッと繊維が綻んだりしていて、魅力的。はじめの頃は大量の牛乳パックを使った。これが結構上質なパルプなのだ。コ-ティングをはがし、細かくちぎって水に浸し、家庭用のミキサ-にかけて繊維状に戻す。ミキサ-のモ-タ-を焼き切って幾つダメにしたことか。

 4.jpg攪拌  6.jpgトロロアオイと混ぜる  8.jpg漉く

今は、こんな機械を学校が購入したのでかなり楽ちん。3kgくらいあっという間に砕いてしまう。ちなみに、この中にあるのは楮。繊維を砕いたら、つなぎのトロロアオイを入れて攪拌。以前、トロロアオイを調達できなくて、代わりにオクラを植えて使ったことがあったけれど漉き上がった紙は青臭かった。ここまで出来たら、漉き枠を使って漉くだけ。三椏、雁皮、楮、パルプ・・・。繊維によって色味も異なり、混ぜたりすることで自然ないろんな調子ができる。また、いろいろな素材を中に漉きこんだり、工夫次第。
今回、紙好き3人で紙漉きをしたけれど、お互いにやりだしたら止まらないといったかんじで、殆ど言葉を交わすこともなく、半分トランス状態で黙々と10kgほど漉いた。売っていないような面白い紙を作りたくて、それぞれが自分の世界に入り込んでしまう。終わってみると背中の、無い筋肉が筋肉痛。充実の3日間、締め括りの宴をして解散。 ・・・さて、それ自体にかなり存在感のあるこれらの紙を、どう料理して作品にしようか。

2005/12/31

好きな絵

3.jpg好きな作家は俵屋宗達。小学校のとき教科書だったか何かで、風神雷神図屏風を見て妙な形体になんだかゾワゾワしたのを覚えている。その後、当時日本には存在しなかった象を想像で描いた絵があると聞き、それが宗達が描いたのだと知ったときどんなものか見たくて仕方がなかった。
美大では3年生くらいに古美術研究で京都に行くのだけれど私はそのとき行かず、友達の話を聞いて後悔した。養源院にはあの象や獅子や麒麟などの襖絵、建仁寺の風神雷神、あとから単独で宗達の絵を置いてある寺をいろいろ調べて観に行った。風神雷神は行けば常に見られる訳ではないらしいのだが、運良く観ることが出来た。他にもいろいろ観てまわり、おおらかで楽しげで不思議な空気の広がりを堪能した。
骨の髄から好きだ!!と思う気持ちは外国作家の作品に対してはあまり感じない。(とは言ってもマティスの金魚シリ-ズすべて本物を見るという目標や、ヒカリモノのクリムト作品に惹かれるのも確かだけど。)平面の中の空間のとらえ方だろうか。
ちょっと前に読んだ本に、砂漠地帯は1点にいて生活できないから鳥の目線、俯瞰で上から下への視点でものを見、それが西欧へ伝わって天地創造の概念を持ったが、日本のような見通しの利かない森林の民は、ものは下から上へと見るしかなかった、と言うようなことが書いてあった。良くも悪くも殿様に命じられ、隅々まできっちりと職人的にコツコツと積み重ねていくのが得意な日本人にはそういう背景があるのだろうか。しかし、宗達は殿様にも仕えず異端で、想像を自由に羽ばたかせて象など描いて、きっと大らかで、この象のように恰幅 の良いおじさんだったのだろうな。 

2005/12/8

展示

むかし油絵を描いていて、重たい空間に耐えられなくなった時期があった。油特有の感触、重たい空間、イメ-ジ性、への鬱屈感。そこで取り敢えず選んだ版画。一筆一筆塗り重ね、時間が充積していくタブロ-とは違って、版画はうすっぺたいインクの層が透けて見える、薄く浅い空間になる。銅という金属物質の硬い質感にも惹かれた。視覚的なものより、触覚的なものへの興味。平面からはなれずに物質性を強く出したい。そして、イメ-ジ性の排除。そんなことを20年くらいモヤモヤ考えて試行錯誤。

もうすぐ個展。前回(一昨年前)のは展示部屋1つが作品、全てが繋がって1つという構想だったけれど、今回は「紙作品」、「版画」、というように仕事を分けて展示してみようかと。紙のしごと、版画のしごと。方法がちょっと違うけれど、目指すものは同じ。そもそも作品とは、物的媒体(素材)-感覚的表面(形態)-題材-象徴性の4つの要素が互いに結びついて現象関係にある有機的統一体。
発色のよさに惹かれて絵具を買い集めることからはじめた水彩画。透明水彩で描くようになってから、空気の掴み方や、色の使い方もちょっと変わってきたような気がする。結局、全てがリンクしている。それにしてもあれこれ考え、逡巡しているようだけど、実際作品つくっているときは、頭からっぽ

2005/10/19